Faculty of International Studies
更新日:2017年06月20日
【国際学部】リレー?エッセイ(9)石井久生「アンソラベエーレおじいちゃんの思い出」
石井久生
アンソレベエーレおじいちゃんは,現地調査で知り合ったバスク人。アメリカ合衆国カリフォルニア州の地方都市ベーカーズフィールドに住んでいた。おじいちゃんと知り合ったきっかけは,彼の著作だった。当時私はベーカーズフィールドのバスク人コミュニティに関する資料を探していたが,単行本は2冊しか存在せず,そのうちの1冊の著者がおじいちゃんだった。しかしそれはネット通販でも入手できなかったので,現地のバスク人会に入手方法を問い合わせるメールを送ってみた。回答は同日中にあった。しかも著者のおじいちゃん本人からだった。おじいちゃんは,ひとしきり入手方法を説明したうえで,日本人である私がどうしてバスク人について調べているのか,興味津々質問してきた。自分の研究テーマを説明するメールを送ると,またもやすぐに返信があり,「今度ベーカーズフィールドを案内しよう」とのことであった。こうして2014年春におじいちゃんと会うことになった。
2014年3月のとある早朝,私はロサンゼルス国際空港に降り立った。即刻そこからレンタカーで200キロ近く離れたベーカーズフィールドに移動し,待ち合わせ場所のホテルにチェックインを済ませた。ロビーで午後3時の面会約束時間に待っていると,おじいちゃんは定刻にやってきた。80歳代と見受けられるが,背筋がぴんと伸びた旧軍人風で,それでいて物腰の柔らかそうな老人だった。おじいちゃんは,上品そうなご婦人を同伴していた。2人と形式的な挨拶を済ませてソファーに座ると,おじいちゃんは片手に抱えた分厚いフォルダーを開いて,おもむろに持参した資料の説明を始めた。ほんのちょっとのメールのやり取りで私の研究テーマのツボを見抜いたようで,いずれの資料も期待を裏切らないものばかりであった。そればかりか,私が生活に困らないように,近所のレストラン情報も印刷してくれていた。厚くお礼を述べて,明日午前に再会する約束をして別れた。部屋に戻って資料に再び目をとおし,その情報量と貴重さに驚いた。資料の多くは現地のバスク系住民組織と個人にまつわるデータであったが,アンソラベエーレ家の家系図も含まれていた。家系図には,アンソレベエーレ家がフランスバスクで興り分家する過程,いくつかの家族がアメリカに移住する過程,さらには移住後の一族の繁栄が網羅されていた。
その晩は夜も更けるのを忘れて貴重な資料に目を通した。前夜の夜更かしにもかかわらず,翌朝は時差ぼけのおかげで早い時間に目が覚め,約束の時間に遅れることはなかった。おじいちゃんは,また定刻にやってきた。これからおじいちゃん自慢のトヨタ製ピックアップトラックで現地を案内してくれるという。そうして2人でバスク人ゆかりの地を巡り,おじいちゃんは各所でそこに刻まれたバスク人の歴史を熱く語った。その姿から,この地ベーカーズフィールドと彼の地バスクに対しておじいちゃんが抱く深い愛情が伝わってきた。昼前に婦人も合流し,当地のバスクレストランで昼食をご馳走になった。昼食の時間はおじいちゃんの思い出話しや家族の話題で盛り上った。朝鮮戦争に技師として従軍した際に,日本にも立ち寄った話しなどをしてくれた。すっかり上機嫌になったおじいちゃんの午後のドライブは,以前にもまして軽やかで,郊外のバスク人牧羊会社まで連れて行ってくれた。こうしてベーカーズフィールドをくまなく巡り,その夕方,来年の再会を約束して別れた。
翌年夏,再びベーカーズフィールドを訪れた私を,おじいちゃんは自宅での夕食に招いてくれた。そこには前回の昼食で話題になった息子夫婦や孫たちも同席しており,再度おじいちゃんの思い出話で盛り上がった。そうしているうちに研究のアイデアがひらめいた。おじいちゃん一家をはじめとするベーカーズフィールドのアンソレベエーレ一族は移住から数世代が経過しているが,バスク地方に在住する同族のアンソレベエーレ家と結び付けたら,どのような世界が見えてくるだろうか。このアイデアは翌年の2015年に実行した。おじいちゃんの情報からアンソレベエーレ家のオリジンは6系統あることが明らかなので,6系統の家族の現世代を探し出す調査をフランスバスクで実施した。そのうち4系統の所在はおじいちゃん情報から明らかなので,事前にコンタクトをとって訪問した。問題は残りの2系統だった。頼りになる情報は屋号とおおよその所在地だけだった。乏しい情報を頼りに道ですれ違う人に尋ねながら,標高1500メートル近いピレネーの山の中を車で捜し巡った。ただ屋号というのは便利な指標のようで,それほど苦労せず到達することができた。そもそも山腹に広がる地域には大きな村が発達せず,一軒一軒の家屋が孤立しているため,屋号が所在を識別する重要な目印として発達したのであろう。おじいちゃんには写真を添えた報告メールを逐一送った。おじいちゃんは私が送る情報を心待ちにしているようで,その都度間髪入れずに回答してきた。返信メールには,私が送った写真の家族に関する情報が詳細に書き込まれていた。まるでおじいちゃんと一緒に旅をしているような感覚だった。
次回おじいちゃんに会ったら何を聞こうと思案していた矢先の2016年1月,ベーカーズフィールドのバスク人からおじいちゃんの訃報のメールが届いた。心臓発作だった。もっと沢山聞きたいことがあったのに。こうして埋もれてゆく歴史があることを,私は身をもって痛感した。それにもまして,あの上品そうなご婦人やかわいいお孫さんはどんなに悲しんでいることだろうか。ご家族の悲しみを思うと胸が痛かった。この夏あるいは来年春に私はベーカーズフィールドを再訪する予定だ。敬愛するおじいちゃんのお墓に,なんと語りかければよいだろうか。
バスクレストランに入るご婦人をエスコートするおじちゃん