Faculty of International Studies
更新日:2019年12月03日
研究紹介
【国際学部】リレー?エッセイ2019 (19)八十田博人「イタリアの『新潟県』マルケ州について」
八十田博人
今年の夏、イタリア中部のマルケ州を旅した。タイトルにしたイタリアの「新潟県」という異名は、私が勝手に名づけているだけである。北西から南東に走るイタリア半島と、北東から南西に走る日本列島の地図をバツ印のように重ねると、マルケ州と新潟県が重なる。どちらも、北に海(アドリア海、日本海)があり、アンコーナと新潟という、国内有数の国際港のある街が、それぞれ州都、県都となっていて、対岸の異世界(ダルマチア?アルバニア?ギリシャ、中国?韓国?ロシア)との交渉が長い。
しかし、マルケ州は相当のイタリア好きにならないと、行かない場所である。内陸のミラノ、フィレンツェから、ローマ、ナポリとティレニア海に抜けるイタリア観光のメイン?ルートと反対側にあり、ローマから電車で4時間かかる。関越自動車道と上越新幹線がなかったころの東京から新潟への旅を想像してほしい。ただ一つ、ウルビーノという街だけは、ルネサンス史に必ず登場する。
そのウルビーノは、イタリア北岸を走る鉄道駅のあるペーザロという街からバスで1時間あまり内陸に向かわないといけない。ウルビーノの街は、イタリアの多くの中世都市のように、丘の上にあり、麓にあるバスターミナルから、連結したショッピングセンターの10階までエレベーターで昇ると、街の入口である城壁が現れる。
城壁に囲まれたウルビーノは1日あれば十分見られる街だが、ゆっくり2日滞在としたおかげで、運よく5日間連続の公爵祭の初日に立ち会えた。公爵祭のオープニングは、国立マルケ美術館がある公爵宮殿(パラッツォ?ドゥカーレ)の中庭で行われ、期間中、ウルビーノ公に扮する人に司教役の人が帽子をかぶせた(写真1)。ウルビーノ公フェデリコ?ダ?モンテフェルトロは、フィレンツェのウッフィーツィ美術館にあるピエロ?デッラ?フランチェスカが描いた有名な横顔の肖像画のおかげで、その名を知られている。面白かったのは、オープニングに続いて行われた、この街を舞台とするカスティリオーネ『宮廷人』の朗読で、冒頭の他の街やボッカッチョをディスっているところを読んでいた(写真2)のは、なかなか上質のお国自慢だなと思った。
写真1 写真2
この街はラッファエッロの生まれた街で、生家も残っているが、宮殿の美術館にも2枚しか残されていない。ただ、生家には14歳のころに描いた処女作ともいえる絵(写真3)が残されている。マルケ名物のウサギのポルケッタ(写真4)を食べ、要塞の上から街を見下ろし(写真5)、礼拝堂の素晴らしい壁画を見て、ウルビーノに関してはお腹いっぱいである。
写真3 写真4 写真5
一方、州都のアンコーナには、私は前々から行きたかった理由がある。実は学部時代の専攻は西洋史で、卒業論文は「『アンコーナ包囲の書』における中世イタリア都市の自由」というタイトルで書いた。今読むと、未熟な学術価値のない論文であるが、1173年に神聖ローマ皇帝フリードリッヒ1世の家臣に包囲された街が、ビザンツ帝国の助けを借りて包囲を解くという事件を扱っていて、これを描いた絵(写真6)を博物館で見ることができた。
写真6
また、初めてイタリアに留学したシエナでも、私はまた、アンコーナという街を思い出していた。シエナの大聖堂には、「ピッコロ―ミニの書斎」という部屋(写真7)があり、この春、学生たちを引率した海外研究旅行で30年ぶりに見たが、ローマ教皇ピウス2世となった人文学者ピッコロ―ミニの生涯を描いた素晴らしい絵画が壁に描かれているが、十字軍を指揮した文人教皇は、十字軍の出発地アンコーナで亡くなるのである。
写真7
ようやく念願かなったわけであるが、古代ギリシャに開かれた港町アンコーナは、ローマ帝国時代にはトラヤヌス帝がダキア征伐に行く出発地となり、近世にはローマ教皇領のアドリア海側の自由港となったものの、観光地とは言えない街である(写真8)。どこか殺風景な理由の一つには、港町ゆえに戦争で空襲に遭い、街も相当破壊されたことがある。そこで、街を飛び出し、愛読する金沢百枝さんの著書『イタリア古寺巡礼』に出ている、アンコーナ郊外のポルトノーヴォという町にあるサンタ?マリア教会(写真9)という、小さなロマネスク教会を訪ねた。海水浴場の近くにある小さな佳い姿の教会だった。帰りにメッツァヴァッレの丘から、すばらしい海のパノラマ(写真10)を見た。評判通り、海が美しいところである。
写真8 写真9 写真10
マルケ州では、ほかにアンコーナから電車で1時間にあるジェンガという町で、ヨーロッパ最大級の鍾乳洞と、立派なロマネスク教会も見てきたが、それらについては、また別の機会に語ることとしよう。